会長の今昔話

固形茶の誕生

固形茶1

 昭和10年(1935年)頃の話でございます。

私の父、竹澤武は静岡県庵原郡両河内村(現静岡市清水区河内)という片田舎で、農業の傍ら機械製の荒茶造りをしておりました。

静岡の問屋に売りに行くと決まって、畑の肥料にでもと、粉茶をもらってきました。

当時、仕上げの工程上で出る粉茶は飲む習慣がなく、ティーパックなどの技術もありませんでした。

研究心旺盛な父は、粉茶の形が小さいという事だけで捨てられてしまうのは、あまりに勿体無い(もったいない)と、粉茶の廃物利用を思い立ちました。

まず粉茶をさらに細かく石臼で挽き、水を加え餅状に練り、お線香のように細長く押し出し乾燥しました。

しかし、お湯を注いでみると泥状に溶けてしまい、飲用には適しません。

辛抱強い父は()まず(たわ)まず研究を続けること数年、ある日、線香状に作った固形茶を囲炉裏の炭火の上に遠火で乾燥しながら見守っていましたが、つい、うたた寝をしてしまいました。

その時、実に不思議な夢を見たそうです。

その夢とは、(ふところ)の懐紙を取り出し開いてみると、その中で金色の恵比寿様が、にっこりと笑いながら自分を見つめているのです。

あまりの気高さに懐紙を使うこともままならず、そっと両手で閉じ懐に納めた処で目が覚めました。

乾燥させていた固形茶は焦げ始め、うっすら煙が昇り始めてしまっております。

慌てて取り出し、うたた寝の失敗を悔いつつも焦げかけた固形茶に熱湯を注いでみました。

何と不思議、形も全く崩れず煎じ出たお茶の湯は大変香ばしく美味しく飲めるではありませんか!

その後の研究の結果、この固形茶なるもの 温度を120℃まで加熱すると、お茶の中の蛋白質とカテキンが融合しあい不崩解の性質に変化する事を発見し、名づけて不崩解性固形粉茶という名称で、特許を取得しております。

恵比寿様を見た夢は、その後 固形茶が世に出る門出を祝福してくれた有難い正夢でありました。父42歳の時のことでした。

 

金色恵比寿

 

当時は、支那事変の最中で、食品不足に(あえ)いでいた時代でした。

お茶も品不足の状況下にあり、この固形茶が日本陸軍の目に留まり、旧満州・支那に赴いていた軍人の飲用茶に採用されました。

凡そ3年ぐらい販売しておりましたが、昭和16年 物資統制令がしかれ、その中で固形茶は製造も販売も禁止令が発令され、機械も片付けお蔵入りとなりました。

第二次世界大戦で日本は敗北、戦後の復興の一つとして、昭和24年、物資統制令も解かれお茶も自由に製造できるようになりました。

父親の固形茶を作る姿を子供心に印象深く思っていた私は、20歳の時(昭和25年)、今一度 固形茶の製造に挑戦してみようと、壊れて残骸のようになっていた当時の機械を半年がかりでコツコツ修繕、組み立てを完了、試作品を作る事に成功しました。

戦後、日本の貿易立国になる先駆けとして、日本茶がリビア・チュニジア・モロッコなどアフリカに市場を求め、輸出幕開けとなりました。

当時、輸出茶の最大大手、静岡市の富士製茶株式会社が、この固形茶を取り上げてくれ、リビア・チュニジアに見本を送ってみたところ、意外なほどの好反響で商談成立の運びとなりました。

生産体制を整えるべく富士製茶の一画を借り機械設備も新調し、本格的生産を始めたのは昭和27年夏のことでした。

その折、アフリカ諸国に輸出した固形茶は flowery(フラワリー) tip(ティップ) と呼ばれていました。

 

茶箱

 

順調に輸出が推移していき、昭和29年4月には企業も法人化し、竹沢製茶株式会社として茶業界に存在をアピールする事となりました。

昭和35年頃になると順調な輸出茶は激減し、固形茶も存亡を問われようになりました。

輸出から国内へと目を転じ、煎茶に混合して美味しく飲んでいただける固形茶を次から次へと開発。

昭和38年頃には固形茶の中に美味しさの元となるアミノ酸を加え、また海苔の香りを添加すべく海苔の粉末を加え、味も香りも兼ね備えた固形茶を完成しました。

この固形茶を数%煎茶にブレンドするだけで煎茶の味が豹変する味付き固形茶はその後大ヒットし、現在でも竹沢製茶ではその製造を堅持しており、関西・北陸路・東北の各地で なくてはならぬ商品として活躍しております。

その後私は、昭和48年に竹沢製茶=固形茶に別れを告げ、現在の茗広茶業にて、新しい茶の開発に没頭しておりますが、自分の生涯の半生近くを費やした固形茶だけに今も愛着を持ち、末永く皆さんから喜ばれる商品であってほしいと望んでおります。



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