会長の今昔話

平成のどんでん返し  ~~リーフ茶はドリンク茶に敗退したに非ず~~

日本における喫茶の起源については諸説ありますが、平安初期の『日本後記』の記述に、弘仁6年(815年)4月「嵯峨天皇に大僧都永忠(えいちゅう)が近江の梵釈寺に於いて茶を献じ奉った」と記されておることから、この頃にはお茶が登場していたことは事実でありましょう。

この時代、どのような茶が飲まれていたかは想像の域を出ませんが、粉末茶よりは団茶(だんちゃ)であった可能性が大きいと思います。

唐の国で作られていた団茶の工程は、

生茶→蒸す→臼で挽く→煎餅状にし真ん中に穴を開け棒で吊るす→火で乾かす、

でした。

平成2 (2)

これを適宜の大きさに割ってお湯に溶かすか、或いは団茶を薬研(やげん)で粉末にし抹茶のようにして飲んでいたでしょう。

平成2 (1)

それもこれも、宮中の方々・上級武士・僧侶など極々限られた上流階級の飲料であったと推測されます。

その後、平安時代末期の頃(1180年代)には、茶の製造及び普及は、第一回目の一大転換期を迎え、お茶の製法も

生茶→蒸す→焙炉に薄く広げ乾燥→石碾(いしびき)にて微粉化→茶筅(ちゃせん)らしきもので混ぜる、

つまり抹茶喫茶法の走りが芽生えた時代でありました。

抹茶といいましても原料は、現代のように覆い下で栽培された碾茶でなく、普通の緑茶を粉末化し飲用したものと推測されます。

400年近くを経て、安土桃山時代(1570年代)に入り、公家から武士・商人の間まで茶の喫茶が広まりました。

茶人と称する風流を好む茶の愛好家が多数出現、その中に彼の有名な茶人千利休も登場、この人たちにより史上第二回目といえる大転換が行われました。

即ち抹茶は千利休のもと本格的な覆い下栽培が始まり、一方では中国人の陶工が嬉野不動山に唐釜を持参、釜炒り煎茶の発祥が嬉野から始まったと伝えられます。

抹茶の場合、茶の湯の接待に客の前で碾茶を臼挽きし献ずるまでに小半時(約1時間)を費やす処から、短時間で飲める煎茶の急須喫茶法が始まりました。

抹茶の喫茶法と急須の喫茶の顕著な二分化が、茶業史二回目の転換期の大きな特長といえましょう。

江戸時代に入ると、徳川家康は一日に何杯もの飲用が手軽にでき、かつ漢方医学の粋とも云える煎茶を特に愛好。

駿府に移り住んでから、地元 足久保地域から藁科地域に茶の栽培を奨励、駿府の町には茶町処を造り、取り扱う茶商を10人以上も住まわせ静岡茶の原点を作っております。

次に第三回目の大きな転換期は明治維新後でしょう。

長い鎖国政治から開国するや否や、いち早く輸出品の候補になったのが、茶の輸出でした。

大浦慶(1828~1884年)が女性ながらイギリスを手始めに交易商として活躍した事はつとに有名です。

年を追うごとに茶の需要が旺盛となり、明治に入るや幕臣達の士族授産事業として、静岡県には磐田原、牧之原、三方原、富士愛鷹山麓などに入植、一大茶産地を形成するに至りました。

この当時の製法は九州は釜炒り茶が比較的多く、京都周辺は蒸し製手揉茶が多く、静岡各地も蒸し製手揉茶が主流をなしておりました。

需要が一段と加速されてきた明治30年代には、高林謙三が高林式粗揉機の発明したことを皮切りに、望月発太郎の揉捻機、臼井喜市郎の精揉機、村松錬太郎の中揉機等が開発され、量産化時代の一大センセーショナルをおこす第三回目の大転換期時代となりました。

生産数量も、明治初め頃は全国生産量2万トンも満たないものが製茶機械の普及も相まって大正の初めには3万数千トンが生産され、ほとんどが蒸し製煎茶で輸出もさることながら国内消費も目をみはるほど多くなってきたのがこの時代です。

さて、第四回目の一大転換期は平成に入ってからです。

茶業の進展情勢は昭和40年代50年代と国民所得の上昇と相まって、平成に入り年間茶の消費総量10万トンを突破するまでに成長した処で、茶業の一大革命時代に突入。

その先陣を切ったのが緑茶ドリンクの出現であったことは申すまでもなく、平成10~25年の凡そ15年間に急須で使用されていた茶葉の消費は50%以下までに激減をみるに至りました。

ドリンクの手軽さは子供から大人に至るまで幅広い愛飲者が増え、茶の抽出液の総飲料量は推定で30%~50%ぐらい増加されているものと考えられます。これは有史以来の茶愛好の最高液量となるものと考えられます。

茶の品種においても転換が始まっています。純粋の茶の代表格として受け継がれてきたヤブ北茶ですが、現在では20種とも30種類近いとも云われている他の品種茶が台頭し、その主役の座を奪われつつあります。

従来のお茶は飲料化するのに水または湯に浸し、その液を呑むもので、全く茶葉以外は何も加えず生っ粋の喫茶が特長でしたが、今日の愛飲家が好んでいる茶は じつに多岐に渡り、様々な物と組み合わせた「調合茶」です。

調合茶は平成の大転換期の特長と云えましょう。

平成4

例を幾つか挙げてみると、若者の人気商品として流行っている果物或いはハーブとコラボさせた茶。

健康増進と銘打って黒豆・玉ねぎ・車揃草(オオバコ)等々、数えれば切がない程にブレンドした茶。

山陰地方から東北まで日本海に面する各県に好まれ飲まれているアミノ酸入りの俗に云う味付き茶。

なかんずく、今が流行のドリンク茶(緑茶・紅茶)にも柚子・レモングラス・豆乳・ピーチ・ラズベリーなどを混入、ドリンクの愛飲層の幅を広げ、正に調合茶のさえたる例と云えるでしょう。

このように茶業史始まって以来の大転換期を迎えたこの平成時代、ドリンクを筆頭に粉末茶からインスタント、茶葉においても色々なものとコラボした調合茶は留まる処を知らず、姿、かたち、喫茶法まで変化を変え邁進中といっても過言ではないでしょう。

ところが・・・静岡県製茶指導取締条例は厳しく、自由に茶葉に調合することを許しておりません(ただし玄米の炒った物は除く)。

どうしても入れたい場合は「異物混入許可申請」なる手続きが必要となりますが、これとて100%許可されるとは限りません。

また、1度許可されても永久ではなく、それぞれの調合茶の申請を3年おきに繰り返さなくてはなりません。

さらに違反者には1年以下の懲役または30万円以下の罰金刑まで科しているのです。

静岡県下の茶業者には調合も取り扱いも簡単には認めない現状の条例は、茶業の研究開発に多大な支障をきたすことと憂慮せざるを得ません。

その実例として、条例のない他府県では色々な食品とコラボさせた調合茶を自由奔放に作り、市場を賑わわせており、やがて時代遅れの静岡県茶業は凋落してしまう憂き目にあうのではないでしょうか。

また、飲料業界大手では盛んに茶の特定保健用食品(トクホ)の開発が進み、これからがこの分野も真っ盛りの市場となることは間違いないでしょう。

この様な時代に静岡県の条例はいかがなものか!!

参考までに荒茶生産量と仕上茶出荷額の全国における静岡県のシェアの低下を示します。

 

平成5

この様な一大転換期の時代には往々にして起こりうる時代錯誤による陋習(ろうしゅう)と軋轢(あつれき)が後日禍となり現れる事が多く、その実例を挙げてみましょう。

明治時代の後半、手もみ茶製法一辺倒の時代、製茶機械が現れると、この機械による製茶法を各茶業組合が自治体と一体となり批判。

機械製のお茶について新聞紙上にまで「本年の一番茶おおむね粗製品多く、ために再製上(形状軽くして色澤乏し)火減り多く形状は勿論香味とも劣等なる」と警告を発している あまりの感覚のズレに、今となっては笑止せざるを得ないでしょう。

 

 平成3

 

以上述べてきました様に、平成の茶業一大転換時期に静岡県だけが60年近い昔の条例を後生大事に守ることにより、日本一の茶業を誇った本県の茶業も生産から開発、研究に後れを取り、やがて凋落の憂き目をみることを予告しておきます。

 



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